蒙古襲来
価格: |
2,640円 (税込)
|
在庫: |
在庫あり |
解説: | 蒙古襲来に関わる史料は多数あるが、通説では説明できないことが多々あった。「蒙古襲来絵詞」を徹底的に読み直すことで、従来の解釈を正し、最新の史料を駆使して蒙古襲来像を再検証する。 |
ISBN: | 978-4-634-15061-4 |
著者: | |
刊行: |
2014年12月
|
仕様: | 四六判 ・ 520ページ |
詳細をみる
目次:
ガイダンス・蒙古襲来
はじめに - クビライの構想
第一章 チャイナタウン・唐房 - 日宋貿易の盛行と巨利
はじめに
一 日宋貿易での利潤の大きさ
二 トウボウ(唐房)と宋人社会
三 文献史料に見る唐房・唐坊
1 『教訓抄』(1094~97)
2 永久四年(1116)経典両巻疏知礼記奥書
3 『栄西入唐縁起』仁安三年(1168=宋・乾道四年)
4 『中右記』長承元年(1132)七月廿八日条
5 『宮寺縁事抄』筥崎造営事(1186)
四 九州周辺のトウボウ地名と地理的環境
1 宗像郡津屋崎唐坊
2 今津のトウボウ(東方)
3 姪浜のトウボウ(その1 当方)
4 姪浜のトウボウ(その2 姪浜稲当方と下山門今東方)
5 佐賀県・長崎県のトウボウ地名
6 鹿児島県の唐房地名
7 山口県・日本海岸のトウボウ
五 トウボウオと汐入干潟
六 博多以外の交易港津 - 有明海と肥前国神崎庄
七 唐坊の日本同化と終焉
第二章 文永十一年・冬の戦い
はじめに
一 不自然にすぎる通説 - 翌朝姿を消した蒙古軍?
二 『八幡愚童訓』は実録にあらず
- 百年前、中山平次郎らの自由な批判精神に戻れ!
三 『勘仲記』が語る真の撤退日
- 十月二十日・翌日の夜戦・二十四日の合戦と二十七日頃の撤退
第三章 文永の役の実像
一 兵員と船の数・何を信じるのか
二 文永の役推移の復原
1 十月三日・合浦出帆
2 十月三日~五日・対馬へ
3 十月十三日壱岐そして二十日早良・鳥飼へ
4 今津
5 二十日・志賀島
6 上陸地と石築地・蒙古の人数
7 筥崎宮焼失
8 大宰府警固所=戊軍=大宰府西守護所
9 少弐経資と景資
六 逆風・嵐
七 攻め上がる北条教時・時輔の亡霊
むすび - 文永の役の位置
第四章 水中の男は竹崎季長!か - 絵詞の主題、舞台は志賀島
はじめに
一 水中の男 - 伏線・導線
二 閏七月五日・竹崎季長の戦場は志賀島沖 - 結果・帰結
1 生の松原からの兵船はどこに行ったのか
2 志賀島から鷹島への移動は一部
3 志賀島海上合戦・曲折を経てのクライマックス
はじめに - クビライの構想
第一章 チャイナタウン・唐房 - 日宋貿易の盛行と巨利
はじめに
一 日宋貿易での利潤の大きさ
二 トウボウ(唐房)と宋人社会
三 文献史料に見る唐房・唐坊
1 『教訓抄』(1094~97)
2 永久四年(1116)経典両巻疏知礼記奥書
3 『栄西入唐縁起』仁安三年(1168=宋・乾道四年)
4 『中右記』長承元年(1132)七月廿八日条
5 『宮寺縁事抄』筥崎造営事(1186)
四 九州周辺のトウボウ地名と地理的環境
1 宗像郡津屋崎唐坊
2 今津のトウボウ(東方)
3 姪浜のトウボウ(その1 当方)
4 姪浜のトウボウ(その2 姪浜稲当方と下山門今東方)
5 佐賀県・長崎県のトウボウ地名
6 鹿児島県の唐房地名
7 山口県・日本海岸のトウボウ
五 トウボウオと汐入干潟
六 博多以外の交易港津 - 有明海と肥前国神崎庄
七 唐坊の日本同化と終焉
第二章 文永十一年・冬の戦い
はじめに
一 不自然にすぎる通説 - 翌朝姿を消した蒙古軍?
二 『八幡愚童訓』は実録にあらず
- 百年前、中山平次郎らの自由な批判精神に戻れ!
三 『勘仲記』が語る真の撤退日
- 十月二十日・翌日の夜戦・二十四日の合戦と二十七日頃の撤退
第三章 文永の役の実像
一 兵員と船の数・何を信じるのか
二 文永の役推移の復原
1 十月三日・合浦出帆
2 十月三日~五日・対馬へ
3 十月十三日壱岐そして二十日早良・鳥飼へ
4 今津
5 二十日・志賀島
6 上陸地と石築地・蒙古の人数
7 筥崎宮焼失
8 大宰府警固所=戊軍=大宰府西守護所
9 少弐経資と景資
六 逆風・嵐
七 攻め上がる北条教時・時輔の亡霊
むすび - 文永の役の位置
第四章 水中の男は竹崎季長!か - 絵詞の主題、舞台は志賀島
はじめに
一 水中の男 - 伏線・導線
二 閏七月五日・竹崎季長の戦場は志賀島沖 - 結果・帰結
1 生の松原からの兵船はどこに行ったのか
2 志賀島から鷹島への移動は一部
3 志賀島海上合戦・曲折を経てのクライマックス
第八章 神風実像と弘安の役の推移
はじめに
一 神風とは思わなかった当事者たち
1 蒙古軍が誇張した嵐の被害
2 御家人にとっての嵐
3 日蓮にとっての神風
4 台風は日本にも平等に被害を与える
二 通説への疑問
1 鷹島で難を逃れた船、沈んだ船
2 鷹島で蒙古兵は船に乗船していて遭難したのか
3 蒙古は日本の襲撃が予想できたのに、なぜ逃げなかったのか
4 東路軍と江南軍の連絡方法
5 屯田兵説
三 史料学にもとづく弘安の役の推移・経過
1 五月三日合浦発
2 対馬へはその日三日に、壱岐へは十五日頃に到来
3 五月二十六日、蒙古軍は志賀島(日本世界村)へ
4 六月六日~八日、志賀島・能古島合戦
5 六月九日頃 長門侵攻
6 六月七~九日頃 対馬増強
7 六月十二日~十九日頃、志賀島からの蒙古軍侵攻、生虜少弐宗資
8 六月二十九日から七月二日 壱岐嶋合戦
9 七月 江南軍の登場
10 六月・七月そして閏七月一日以降
11 戦いが終わって - 殺されなかった捕虜
12 神仏の戦い・思円上人
13 推移の要約
四 その後の日元関係 - 準交戦状態にもかかわらず、盛行する交易
1 戦争と平和 - 戦下の交易
2 求められた平和外交
補論 国境の対馬
第九章 石築地(元寇防塁)考
第十章 蒙古襲来と偽文書
一 文永十一年十二月七日付の都甲文書の真偽について
二 五条文書・少弐(武藤)景資書状の疑点
三 『薩藩旧記雑録前編』所収・国分寺文書・
建治元年十二月三日官宣旨写
四 福田「文書」の疑点
成稿一覧
あとがき
はじめに
一 神風とは思わなかった当事者たち
1 蒙古軍が誇張した嵐の被害
2 御家人にとっての嵐
3 日蓮にとっての神風
4 台風は日本にも平等に被害を与える
二 通説への疑問
1 鷹島で難を逃れた船、沈んだ船
2 鷹島で蒙古兵は船に乗船していて遭難したのか
3 蒙古は日本の襲撃が予想できたのに、なぜ逃げなかったのか
4 東路軍と江南軍の連絡方法
5 屯田兵説
三 史料学にもとづく弘安の役の推移・経過
1 五月三日合浦発
2 対馬へはその日三日に、壱岐へは十五日頃に到来
3 五月二十六日、蒙古軍は志賀島(日本世界村)へ
4 六月六日~八日、志賀島・能古島合戦
5 六月九日頃 長門侵攻
6 六月七~九日頃 対馬増強
7 六月十二日~十九日頃、志賀島からの蒙古軍侵攻、生虜少弐宗資
8 六月二十九日から七月二日 壱岐嶋合戦
9 七月 江南軍の登場
10 六月・七月そして閏七月一日以降
11 戦いが終わって - 殺されなかった捕虜
12 神仏の戦い・思円上人
13 推移の要約
四 その後の日元関係 - 準交戦状態にもかかわらず、盛行する交易
1 戦争と平和 - 戦下の交易
2 求められた平和外交
補論 国境の対馬
第九章 石築地(元寇防塁)考
第十章 蒙古襲来と偽文書
一 文永十一年十二月七日付の都甲文書の真偽について
二 五条文書・少弐(武藤)景資書状の疑点
三 『薩藩旧記雑録前編』所収・国分寺文書・
建治元年十二月三日官宣旨写
四 福田「文書」の疑点
成稿一覧
あとがき
- その1 絵
はじめに
Ⅰ 正確さ
一 虎皮は似絵 - 絵の写実性・真実性
二 菊池武房、虎の尾尻鞘と菊池一族
三 島津一門についての情報
Ⅱ 正確さと不正確さの間
四 季長の主張、河野通有仮屋形・妻戸の有無
五 粉本どおりに、画一化された馬や武者
Ⅲ 不正確さ
六 竜骨を持つ蒙古船はV字底
七 透ける鎧 - 直垂から鎧への変更
八 水主の鎧着用に関する疑問
九 漕法に関する疑問
十 三井軍団のなかの竹崎季長
十一 従者の不在
十二 注記その一、官途平兵衛尉
十三 注記その二、大宰少弐三郎左衛門尉・景資
Ⅳ 関連する諸問題
十四 三人の蒙古兵ほか - 木を見て森を見ず
十五 熊本・細川藩による保存修理(補彩・補色)
第六章 海東郷地頭職を得たのはいつか
- 『蒙古襲来絵詞』の史料批判 その2「詞」(ことば)
はじめに
一 絵詞と奥書の乖離 - 成立を異にする別史料
二 『蒙古襲来絵詞』の「書下」のイメージ
三 海東郷地頭職は文永の役での恩賞地なのか
疑問点1 御下文の内容
疑問点2 文永・弘安における勲功の差
四 守護の手ノ者 - 竹崎季長兵船に乗った安達盛宗被官
第七章 竹崎季長の出自
- 兵藤江田流、苗字の地は菊池川河口津、玉名郡竹崎
一 兜を交換し見継ぐ関係
二 竹崎は益城郡なのか玉名郡なのか
三 遠賀川流域の兵藤(粥田・山鹿)氏と、
菊池川流域の兵藤(菊池・江田)氏との類似性
四 菊池川水運と河口津竹崎
五 「しゆゑ(朱衣)の御房」と「熊野先達をかの法眼」